1.共和政ローマ
ギリシア世界と同じく、ヨーロッパ文化の源流となったのがローマ帝国である。伝承では前753年に成立、アテネと同じく、初期には貴族が政治を独占していたのに対し、重装歩兵として躍動した平民が挑戦する形で参政権が拡大されていく。
- 【紀元前509年】共和政成立
- 【初期】元老院(公職者に助言を行う指導者会議)・執政官(コンスル:最高官職)が貴族によって独占されていた
- 【前494】護民官(平民の権利保護を担う公職)設置
- 【前5世紀頃】平民会(平民による会議)設置
- 【前450頃】十二表法(=成文法)明記
- 【前367】リキニウス・セクスティウス法(執政官2名の内1名は平民から出すことを定めた法律)で、平民の参政権が大幅に拡大する
- 【前287】ホルテンシウス法(平民会の決定が元老院の決議なしで法になることを定めた法律)で平民と貴族の権利がほぼ同等になる
ホルテンシウス法によって、平民に立法権、貴族に執政権がある状態となり身分闘争は一旦決着を見た。しかし、それが仇となって両者がかえって反目する結果になってしまう。
2.イタリア半島統一とポエニ戦争
政治面では平民と貴族の身分闘争が繰り広げられた一方、その間にもローマは着々と版図を拡大し、ホルテンシウス法制定を前にイタリア半島を統一した。
その後、ローマはカルタゴを攻撃目標と定める。カルタゴはフェニキア人による植民市をルーツとする国家で、シチリア半島(イタリアの「長靴」の爪先の先にある島)を狙っていたことからローマと衝突することとなったのだ。
かくして、ローマとカルタゴによる地中海の制海権を巡る戦争、ポエニ戦争(前264~146)が勃発する。再三にわたる衝突の中、カルタゴのハンニバルとローマのスキピオが互いに手腕を発揮して一進一退の攻防が続いたが、最終的にローマの勝利に終わった。尚、「ポエニ」とはラテン語で「フェニキア」を意味する。
地中海に覇を唱えた共和政ローマ。しかし、それが必ずしも良い結果をもたらした訳ではなかった。長きにわたる戦争によって国内の農業が衰退した一方、富裕層が大量の戦争奴隷を雇って農業に従事させ、安価な作物を流通させたことで失業者が町に溢れたのである。そこで、政治家は「パンとサーカス」=食事と娯楽(剣闘)を提供して懐柔を図るも、戦に勝つ度に閉塞感が強まるというジレンマに陥ってしまった。
3. 「内乱の一世紀」 前2世紀~前1世紀
このジレンマ、閉塞感によって、前2~1世紀のローマでは内紛が相次いだ。内紛は主に次の3つに分類できる。
- 平民と貴族の対決
- 同盟市戦争(前91~前88):「同盟市」とは、ローマ市民権を有さず軍隊を提供する義務を課されたイタリア半島内の都市である。グラックス兄弟による改革が失敗したことに対し、各地の同盟市が結託して反乱を起こした。これによって半島内の住民は市民権を得ることとなった。
- スパルタクスの乱(前73~前71):剣闘士スパルタクスによる反乱。剣闘士を中心に奴隷達が蜂起したがローマ軍によって鎮圧された。
<参考>
・山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ