無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

まとめ 古代~中世ヨーロッパ

 

f:id:M-harakiri:20200426183658p:plain

f:id:M-harakiri:20200426183644p:plain

古代・中世ヨーロッパ


古代――ギリシアとローマ

 ヨーロッパのルーツは古代ギリシアとローマにある。ギリシアが各地に植民市をつくったことローマが地中海を中心に広く欧州を支配し、最終的にはキリスト教を国教化したことは、ヨーロッパの統一感を生むことになる。

 

古代ギリシア

エーゲ文明

 初めに現れたのは、平和的なクレタ文明。それを、後から現れたミケーネ文明が滅ぼしてしまう。しかし、そのミケーネも間もなく滅び、記録のない暗黒時代に突入する。

 

 都市国家ポリス

 暗黒時代を過ぎると、都市国家ポリスが出現する。中でも、イオニア人アテネドーリア人のスパルタは有名である。

  • アテネ・・・重装歩兵として私費で従軍する市民が貴族に身分闘争をしかけ、数百年かけて直接民主政を実現する。
  • スパルタ・・・積極的に外征を行い、連れ帰った隷属農民(ペリオイコイ)・周辺民(ヘイロータイ)を押さえるべく、市民はもれなくリュクルゴスの制による軍国主義教育を受けた。

 

ポリス社会の終焉

 紀元前500年からのペルシア戦争ギリシア世界衰退の嚆矢だった。この戦いは、アケメネス朝ペルシアにアテネ・スパルタをはじめとする諸ポリスが戦ったのだが、同時にアテネとスパルタの主導権争いのきっかけとなった。

 それで、アテネデロス同盟スパルタのペロポネソス同盟とがギリシアの覇権を争って、ペロポネソス戦争を戦うことになる。戦は長期戦となり、ポリスは疲弊、スパルタも第三国のテーベに敗退し、ギリシア世界は混迷を極めた。

 そこに、フィリッポス2世に率いられた北方のマケドニアが進出、カイロネイアの戦いアテネ・テーベ連合軍を破ると、ポリスをコリントス同盟としてまとめあげる。

 更に、2世の子・アレクサンドロス大王は、ギリシアの脅威・ペルシアを討伐すべく東方遠征を開始。瞬く間にペルシアを制圧して滅ぼすと、その勢いでインドまで進出した。ところが、帰路、大王が跡継ぎを指定せずに死去したために内紛が発生。広大なアレクサンドロスの帝国」は分裂してしまった。

 

ローマ帝国

共和政ローマ

 貴族による共和政は紀元前5世紀頃に始まったとか。

 当初は貴族が政治を独占していたが、アテネと同じパターンで身分闘争へ。護民官の設置に始まり、最終的にはホルテンシウス法制定で平民会と元老院とが同等の権利をもつに至るが、アテネと違って、貴族と平民がかえって反目する結果となる。

 一方、その間にも着々と版図を拡大し、ポエニ戦争カルタゴと雌雄を決すると、イタリア半島から地中海全域の支配者となった。

 

内乱の一世紀

 しかし、度重なる出征で国内の農地が荒れる一方、貴族が大量の奴隷を雇って安価な農産物を流通させると、失業者が続出。それが職を求めて都市部に押し寄せてくるもんだから、貴族は「パンとサーカス」(食料と剣闘観戦)で懐柔を図ったものの、「戦えば戦うほど閉塞感が高まる」ジレンマに陥る。

 それで、前1世紀はスパルタクスの乱やら同盟市戦争やらで、内乱が相次いだ。人々は、強い指導者を求めた。

 その声に応じたのが、ポンペイウスクラッススカエサルだった。彼らは三頭政治と呼ばれる寡頭制で民を導こうとするが、やがて決裂。ガリア遠征を成功させてますます人気の高まるカエサルが、他の二人との抗争に勝ち抜き、臨時の独裁者として君臨した。だが、独裁者の立場を永久的なものにしようとして反感を買い、凶刃に倒れた。

 

帝政ローマ

 カエサルらの後、オクタウィアヌスアントニウスレピドゥスによって再び三頭政治が展開される。そして、今回もすぐに分裂する。特にアントニウスプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラと結んで、ローマを攻撃。オクタウィアヌスのローマ軍とアクティウムの海戦で戦うが、結局敗れた。これによって、オクタウィアヌスは国内の政治を掌握した上、プトレマイオス朝も倒れたことでローマが地中海地域の覇者となる

 で、オクタウィアヌス元老院から「尊厳者(アウグストゥス)」に叙せられた。ここに、帝政ローマが始まる。

 

パクス=ロマーナ~3世紀の危機

 オクタウィアヌスの後、特に五賢帝の時代は治世が安定し、誰もが平和を享受する「ローマの平和」が訪れる。1~2世紀のことである。

 その後は財政難に陥った上、カラカラ帝が暴君だったために国内が荒れ、人皇帝時代(3世紀)に突入。皇帝の進退は軍部に握られ、暗殺等も横行して目まぐるしく皇帝が入れ替わった。

 

一時的な建て直し~帝国分裂

 それを打開したのが、ディオクレティアヌスディオクレティアヌスは混乱を収拾すると、皇帝を神格化して専制君主制を布いた。だから、エス唯一神とするキリスト教徒と対立し、ローマ史上最後の大弾圧を行う。それから、帝国を東西にわけて、それぞれに正帝・副帝をおく「四帝分治」を始めた。

 一方、その後のコンスタンティヌスミラノ勅令キリスト教を容認し、キリスト教徒を引き入れた。また、ビザンティウムコンスタンティノープルと改め、遷都した。

 二人によって帝国は一時的に立て直したが、今度は折しも「ゲルマン人の大移動」で帝国内へのゲルマン人の圧迫が激しくなる。最後の皇帝・テオドシウスは、アタナシウス派キリスト教を国教とした上で、帝国を東西に再編し、それぞれ息子に分け与えた。ここに、ローマ帝国は分裂した。395年の出来事である。

 

中世ヨーロッパ――西はフランク 東はビザンツ それと教皇

 4世紀後半からの「ゲルマン人の大移動」によって、西欧の先住民であるローマ人やケルト人が追いやられる。それに対し、移動してきたゲルマン人は各地に王国を築く。

 

フランク王国

 まず、フランク王国ゲルマン人クローヴィスによって現在のフランスあたりに建国された。西ローマ帝国が、帝国分裂後100年ほどで滅亡した直後、5世紀後半の話だ。クローヴィスは、ゲルマン人ながらローマで正統とされたアタナシウス派に改宗し、ローマ人からの支持を得たことで知られる。

 他方、クローヴィスのメロヴィングは分割相続だったので、代を重ねるごとに王家の領地は減少。いつしか宮宰と呼ばれる最高行政職が実権を握るようになる。宮宰カール・マルテルは、トゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を撃退した。

 マルテルは宮宰の地位に甘んじたが、その子ピピンのときに王位を奪い、カロリング朝を開く。ただ、それでは単なる簒奪者。そこで、ローマ教皇に土地を寄進する代わりに、正式な王位継承者として認めさせた。宗教的権威を利用するとは、巧みよな。

 で、そのピピンの子がカール大帝・・・フランスではシャルルマーニュと呼ばれている御仁。大帝と呼ばれるだけあって、フランク王国の領地を東西南北全方位に拡大する偉業を果たす(これによって、現在の仏・独・伊にあたる地域が王国領となる)。それで、ローマ教皇レオ3世は西ローマ皇帝の冠を大帝に授けた。丁度800年の出来事だ。

 しかし、栄華は長く続かない。大帝の孫の代には身内で領地の取り合いが起き、フランク王国西フランク王国東フランク王国・イタリアに分裂する。9世紀後半である。

 

神聖ローマ帝国ローマ教皇

 西ローマ帝国は早々に滅亡する。ローマ教会・教皇は帝国を拠り所にして現実世界に影響を及ぼす存在なので、西ローマ帝国の滅亡で滅茶苦茶焦る。なにせ、言葉も通じぬ異民族(ゲルマン人)の真っ只中にほっぽり出されたのだ。

 で、禁を破って偶像を用いた布教活動を行いゲルマン人を取り込もうとした。言葉よりもイメージを使った方が伝わりやすいからね。ただ、そこをコンスタンティノープル教会に付け込まれる。

 コンスタンティノープル教会東ローマ帝国ビザンツ帝国が長続きしたことで、基盤が安定していた。そして、ローマ教会とキリスト教における主導権を争っていた。となれば、ローマ教会の破戒は千載一遇の好機。それで、8世紀前半に聖像禁止令を皇帝に出させて優位に立とうとした。ここに緊張はピークに達し、いつしか人々はローマ教会のキリスト教カトリックコンスタンティノープル教会のそれをギリシア正教と呼ぶようになった、という次第だ。

 

 さて、ローマ教皇は結局西欧で最大の権力者となる教皇は念願の拠り所を見つけた――それが、ピピンでありカール大帝でありオットー1世なのだ――が、意外にも神聖ローマ帝国は内政が安定せず、イマイチ頼りなかった。それで、農民に課税するようになって、精神世界だけでなく現実世界にも直接力を及ぼすようになったローマ教会が、西欧随一の権力者となる。

 それを象徴するのがカノッサの屈辱。腐敗の進む教会の在り方を正そうとしたローマ教皇グレゴリウス7世の政策に反発した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、かえって破門に遭って、にっちもさっちも行かなくなり、雪の中、3日にわたって謝り続けるという事件だ。教皇の権力が皇帝よりも上であることを如実に物語っている。

 その後、11世紀末にビザンツ帝国が東のセルジューク朝に押され、聖地イェルサレムをも支配されると、ローマ教皇ウルバヌス2世は西欧諸王国軍から成る十字軍を結成。以降、約200年の間で合計7回、遠征を行った。

 しかし、十字軍は1回目以来成功することがなかった。それで、ローマ教皇の権威は失墜する。それを象徴するのが、14世紀初頭のアナーニ事件。フランス王フィリップ4世が軍費調達のため、国内の聖職者に課税しようしたことに対し、お得意の破門戦術を展開した教皇が逆に拉致された出来事だ。この事件には続きがあって、教皇の後釜にフランス人が就いたことを利用し、4世がアヴィニョン教皇庁を移転させてしまう。この「バビロン捕囚」は70年ほど続き、イタリアのローマにも教皇が立ったことで教会大分裂が発生したのだった。

 

フランス王国イングランド王国

 9世紀からは北欧のゲルマン系「ノルマン人」が南下を始める。所謂ヴァイキングで知られる彼らだが、その一派がカペー朝フランス王国に上陸する。それで、国王からノルマンディー公国として所領を認められると、暫く後、今度はそこからウィリアム1世ブリテン島に進出する。このノルマンコンクエスによって建国されたのがイングランド王国・・・イギリスのルーツである。

 ウィリアム1世に始まるノルマン朝は、100年ほどで滅ぶ。そこで、血縁関係からフランス王家臣アンジュー伯ヘンリ2世イングランド国王に就く。このとき、その所領(フランスの西側)もイングランド王国の物になった。

 で、2世の後のリチャード1世は第3回十字軍で最後まで戦い続け「獅子心王」と呼ばれたのだが・・・。更にその後のジョン王の治世は失政に次ぐ失政、フランス王フィリップ2世に大陸の領土のほとんどを奪われる、教皇から破門にされると散々な結果に。

 というわけで、貴族達は王権を制限するマグナ=カルタを突きつけた。更に、その次のヘンリ3世がこれを無視するので、シモン=ド=モンフォールの議会で議会の開催を王に初めて認めさせた。そして、その後のエドワード1世は社会各層による模範議会を始めた。

 

 一方、フランス王国ではフィリップ2世がジョンから領地を奪還したことで王権が強化される。その孫・ルイ9世は十字軍としてイスラーム勢力と戦った「聖王」として名を上げ、更にその孫のフィリップ4世はアナーニ事件を起こした。こんな感じで、イングランドでは議会が準備され、フランスでは王権が強まっていった

 

 そんな英仏がぶつかり合ったのが14~15世紀の百年戦争だ。羊毛産地のフランドル地方を巡り、フランス王位継承をきっかけとして、イングランドがフランスに侵攻した。戦いは凡そ100年も続き、最終的には大陸からイングランド王国領がほとんど消えるという形で終了した(オルレアンの少女の話も忘れずに)。

 尚、イングランドではそのまま王位継承権を巡るバラ戦争に突入した挙句、テューダー朝が始まる。

 

レコンキスタ

 イベリア半島では、8世紀からイスラーム勢力の支配下にあった。しかし、他の宗教に比較的寛容だったウマイヤ朝が11世紀に滅亡すると、半島をキリスト教徒の手に取り戻そうとするレコンキスタが活発になる。特に、カスティリャ王国はその旗頭であった。12世紀には、そのカスティリャ王国からポルトガル王国が独立し、13世紀にレコンキスタを完了した。

 その一方で、15世紀にはカスティリャ王国王女イザベルアラゴン王国王子フェルナンドが結婚したことでスペインが誕生。二人はカトリック両王として手を取り合って戦い、15世紀末にレコンキスタを完遂し、イベリア半島からイスラーム勢力は撤退した

 

<終>

 

 

 

あ~疲れた。