無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

イスラム教の成立

 

 前回は、「小アジアメソポタミア・レヴァント・エジプトの統一について」触れた。アッシリアに続く史上二度目のオリエント統一国家アケメネス朝ペルシアは、被征服民に寛容な姿勢をとり、中央集権体制を整えて約200年もの間存続したが、アレクサンドロス大王の東方遠征(前334~)に遭って滅亡した。今日は、その後のオリエントの話である。

 

セレウコス朝(前4世紀末)→パルティア(前3世紀半ば)→ササン朝(3世紀~)

 「アレクサンドロスの帝国」は、アレクサンドロス大王の死去をきっかけとした「後継者(ディアドコイ)戦争」で分裂する。その中でオリエントを広く手中に収めたのが、セレウコス朝シリアだった。

 

 しかし、紀元前247年、イラン高原イラン系遊牧民によるパルティア(中国名:「安息」)がセレウコス朝から独立、やがてメソポタミアに版図を拡大し、共和政ローマと争った。例えば、カエサルの政敵クラッススアルメニアを巡るパルティアとの戦争で討死している。

 パルティアは紀元前3世紀半ばから紀元3世紀初頭まで存続した。だが、次第に勢いに乗る帝政ローマに押されて衰退、224年にササン朝ペルシアによって倒された。

 

 ササン朝ペルシアはイラン系農耕民による国家だった。帝政ローマと戦って皇帝を捕虜とするなど、ローマのライバルとして抗争を繰り広げ、ローマ無き後はビザンツ帝国と覇を競った。しかし、最終的には7世紀にイスラーム勢力に敗れ滅亡した。

 パルティアとササン朝は共にイラン系の王朝で、ゾロアスター教を保護(ササン朝は国教化)したり、シルクロードを押さえて利益を得たりした点が共通している。

 

 

イスラム教の成立

 さて、ササン朝を滅亡に追い込んだイスラーム勢力だが、その成立はビザンツ帝国ササン朝の抗争と密接に関わっていた

 7世紀、西アジアではレヴァントまでをビザンツ帝国が、それよりも東をササン朝が支配し抗争を繰り広げていた。商人たちはその近辺の通行を避け、アラビア半島を経由してエジプトに抜けるようになる。

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当時の状況

 それによって、通り道にあったアラビア半島の都市メッカメディナが発展する。ただ、それは同時に貧富の格差を生むこととなった。ここに、イスラム教誕生のきっかけがある。

 同じ頃、メッカのムハンマドは、瞑想中に天使ガブリエルから唯一神の教えを授かり、預言者(神の教えを授かった者)を自覚した。そして「神の前の平等」を唱え、貧者達の支持を得ていった。その一方で、富者や多神教信奉者から迫害を受けたので、ムハンマドメディナに移動した。この移動は「聖遷(ヒジュラ」(622)と呼ばれ、イスラムの原点にしてイスラム暦の「元年」である。また、信者による共同体(ウンマ)が発足した。

 その後、メディナで力を蓄えたムハンマドは630年にメッカを攻略、カーバ神殿の偶像を破壊して聖地となした。この戦いを「聖戦(ジハード)」という。

 ムハンマドはほどなく死去するが、継承者(カリフ)達はアラビア半島の民族をまとめ上げてほぼ支配下に収め積極的に聖戦を行ってササン朝を滅亡に追い込んだ(651)。

 

 

<参考>

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・「世界史の窓」 https://www.y-history.net/appendix/wh0101-122.html 

         https://www.y-history.net/appendix/wh0501-008.html