無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

昏き漢民族の王朝

 

 

 元皇帝の蕩尽に、交鈔乱発によるインフレ、そして農民の困窮。朱元璋は、それらを発端として巻き起こった紅巾の乱(1351~66)の中で抬頭し、次の時代を切り拓いた人物である。彼は貧農の出だったが、紅巾の乱に参加するや高い統率力を発揮し、南京を陥れると、皇帝を名乗り「」の建国を宣言した。そして、元の首都・北京を攻め落とし、元を北方へ追いやった(北方に後退した元を「北元」と言う)。ここに、中国が漢民族の手に帰したのである。

 

久々の漢民族の王朝――「明」 都:応天府(金陵・南京)→順天府(北京) 1368~1644

洪武帝朱元璋)の治世(1368~98)

一世一元の伝統を始める

 元を駆逐した朱元璋は、年号を「洪武」として洪武帝を名乗る。ここに、年号を皇帝の即位に合わせて変更する「一世一元制」が始まった。

 

統治機構改革 三省六部の見直しと農民の掌握

 他方、洪武帝は、三省の一つで皇帝からの命令を書類にする中書省を廃止し、六部を皇帝直属の機関に変更した。つまり、一人の皇帝が直接六部に指示を出す独裁体制を作り上げたのである。

 また、農民出身であることを活かして、農民を上手くとりまとめることに成功する。洪武帝は、隣接する110戸を裕福な里長戸(10戸)と里首戸(残り100戸)とに編成し、治安維持と納税の単位とする里甲制を布いた。その上で、賦役黄冊と呼ばれる戸籍と魚鱗図冊という土地台帳とを作成させ、農民を管理した。各里の長老は里老人として、六諭儒教の訓えを6つのスローガンにしたもの)を唱和させて治安維持に役立てた。

 

足元を掬われぬために・・・

 ただ、洪武帝は自らの出自の劣等感からか、非常に疑い深い性格であった。それで、間諜や秘密警察が常に家臣を監視し、皇帝の裏で宦官が暗躍するなど、昏い雰囲気をまとった王朝でもあったようだ。建国の功臣など、有能な配下に帝位を奪われるのではないか危惧し、無実の罪を着せて殺害すること多々あったという。また、数万人規模の粛清を行うこともあり、官僚たちは都に赴く度に妻子に別れを告げ、再び帰宅した際には無事を喜び合うほどであったとか。

 

永楽帝の治世(1402~24) 王朝最盛期

 二代目建文帝を政変(靖難の役:1399)で自殺に追い込んで即位したのが永楽帝。この永楽帝のとき、明は最盛期を迎える。その背景には、洪武帝による盤石な支配体制も然ることながら、永楽帝自身の優れた能力もあったという。

 

"内閣"のルーツ

永楽帝の実績としてまず挙げられるのが、皇帝の秘書官に当たる「内閣大学士」の設立である。洪武帝は一人で六部を支配する独裁体制を築いたが、膨大な案件を一人で処理するのは大変であった。そこで内閣大学士を設け、重要な案件以外を処理させることにしたのである。次第にこの"内閣"が権限をもつようになるのだが、現代日本の"内閣"という組織名のルーツはここにある。

 

南海諸国遠征(1405~33)

 永楽帝は、宦官でイスラム教徒だった鄭和(テイワ)に、62隻、2万8000人という大艦隊を預け、東南アジアからインド洋・ペルシア湾を通って東アフリカに至る大遠征を行わせた。この「鄭和の大航海(南海諸国遠征)」により、10カ国以上の属国を獲得することに成功した。

明は海禁政策をとって民間の海上貿易を禁止する代わりに、そのような属国からの貢物に対して返礼するという形の「朝貢貿易を行った。足利義満との日明貿易もその内の一つである。

 

 その他、永楽帝は、モンゴルへ度重なる遠征を行ったり、北京への遷都を行ったりしている。

 

北虜南倭

 永楽帝の後、明は北のモンゴル系異民族と南の倭寇とに長い間苦しめられることになる。この状態を「北虜南倭」という。例えば、六代皇帝の正統帝は、モンゴル系民族のオイラートに対して50万の兵で迎え撃つが、土木の地で逆に虜にされるという土木の変(1449)が起きている。後に正統帝は解放されるが、これを期に北方の守りとして万里の長城が見直され、歴代皇帝が現在のレンガ積みの長城へと補修していった。

 

終末の刻

 北虜南倭に苛まれつつも、明は更に200年ほどの命脈を保つ。しかし、それも十四代皇帝の万暦帝(位1572~1620)の頃になると、いよいよ翳りが見えてくる。彼は皇太子時代の教師であり補佐役の張居正と共に改革を断行、税を銀で治めさせる一条鞭法(1581)を施行し、確実に税を納めさせて財政の安定に貢献した。しかし、張居正は有能であったが政治に口出しをすること甚だしく、そのせいか、即位から10年ほどで張が退くと、万暦帝は引き籠って贅沢と女に溺れ、二度と政治を顧みることはなかった。

 ところが、時代は万暦帝の敵であった。折からの北虜南倭で軍事費がかさんでいたのに加え、1592年からは豊臣秀吉朝鮮出兵が始まり、朝鮮に味方した明の財政はますます冷え込んでいったのである。明はこの財政難を銀山の開発と増税で賄おうとしたが、その大部分が宦官の懐に入る悪循環に陥った。

 

 その結果、各地で反乱が相次いだ。特に李自成の乱は最大規模を誇り、北京を占領して皇帝を自殺に追い込んで明を滅ぼしてしまう(1644)。しかし、時を同じくして北方の女真族を建国して南進し、万里の長城を越えて北京に迫ってきていた。皇帝を名乗った李自成は、清の進撃を止めること叶わず自害。時代の主役は清にとって代わられたのである。

 

 

参考

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-017.html 

       https://www.y-history.net/appendix/wh0801-026.html