無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

絶対王政① スペイン

 

絶対王政の諸国

ここからは、主権国家が実際にどのような遍歴を経たが見ていく。

主権国家とは 

  • 主権者(国王)国内において絶対的な権力をもつ。 【絶対主義】
  • 諸侯はただ一人の王に従う。これにより、国境と指揮兵力が明確になった。
  • 長きにわたるイタリア戦争で発展した、戦争特化型国家形態である。

 

スペイン 陽の沈まぬ帝国から斜陽の帝国へ

大航海時代、いち早く"新大陸"を発見し、南米を植民地支配することで成長したスペインは、一躍世界の主役の座に躍り出た。

 

兼任の王カルロス1世 巧みな婚姻政策で二国の太守となる

スペイン国王カルロス1世(位1516~56)にはもう一つの顔があった。神聖ローマ皇帝カール5世(位1519~56)としての顔である。

16世紀初期、それまで長らく神聖ローマ皇帝の座を継いできたハプスブルク家は、巧みな婚姻政策でスペイン国王の座も手に入れた。それで、ハプスブルク家からスペイン国王カルロス1世が出たのだが、家の伝統に則って神聖ローマ皇帝としても即位したのだ。

従って、教皇レオ10世と結託してルターを追いやった神聖ローマ皇帝が、次の瞬間にはスペイン国王としてマゼランに世界周航を命じていたのである。

 

"太陽の沈まぬ帝国" 同君連合

こういうわけで、ハプスブルク家は、スペイン=ハプスブルク家神聖ローマ帝国ハプスブルク家とに分派していった。

で、カルロス1世の次にスペイン国王を継いだのが、スペイン=ハプスブルク系のフェリペ2世――「フィリピン」の名の由来だ。

このフェリペ2世のとき、スペインは"太陽の沈まぬ帝国"と呼ばれることになる。というのも、2世の妻がポルトガル王女であったため、スペインとポルトガルは同じ王が統治する"同君連合状態"になったのだ。大航海時代を主に西方へ切り拓いたスペインと、東方に向かって切り拓いたポルトガルとが合体したわけだから、その領地(植民地)は世界中にある。それで、常に国土のどこかに日が昇っている帝国、つまり、"太陽の沈まぬ帝国"と呼ばれたのであった。

 

斜陽の帝国へ 

他方、フェリペ2世の治世の後半からは帝国の衰退が始まってしまう

きっかけはハプスブルク家領のネーテルランドである。

16世紀、ルターの宗教改革に触発され、スイスでカルヴァン派が興り、そのカルヴァン派がネーテルランドにも広まりつつあった。

しかし、カール5世は教皇とルターを弾圧しようとした人物で、子のフェリペ2世もまた熱心なカトリック信者であった。それで2世はネーテルランドでプロテスタントを禁じ、カトリックを強要したのである。

 

すると、信仰の強制や重税に苦しんだネーテルランドの人々は、オラニエ公ウィレム(1533~84)を戴き、帝国に対してオランダ独立戦争(1568~1609)をしかけたのだ。

ただ、当然ながら、ポルトガル神聖ローマ帝国をも兼ねるスペインに対して、ドイツ北西部の一部地域が立ち向かうのは前途多難と言わざるをえなかった。実際、オランダ南部にはカトリックが残っていて、開戦10年ほどでスペイン側に懐柔されて離脱し、カルヴァン派が多い北部7州がユトレヒト同盟を組んで継戦することになったり、1581年に「ネーテルランド連邦共和国」として北部7州が独立を宣言するや、数年後に総督のウィレムが暗殺されてしまったりと、厳しい戦いが続いた。

しかし、木の桶を被り銛を手に立ち向かう姿から「ゴイセン(乞食)」と渾名されたオランダ市民たちは尚も粘り強く戦い、利害が一致したイングランドがスペインを叩くなどしたため、次第に戦況はオランダに傾いた。そして、1609年に停戦条約が締結され、ネーテルランド連邦共和国は事実上の独立を果たしたのである。

その後、オランダは東インド会社を設立し、スペインに代わって世界貿易を先導して「栄光の17世紀」を生きることになる。

 

そしてそれは、スペインという太陽が傾き始めたことを意味した。

 

参考

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0904-049.html