無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

絶対王政② イギリス

 

再掲:主権国家とは 

  • 主権者(国王)国内において絶対的な権力をもつ。 【絶対主義】
  • 諸侯はただ一人の王に従う。これにより、国境と指揮兵力が明確になった。
  • 長きにわたるイタリア戦争で発展した、戦争特化型国家形態である。

 

イングランド 王と議会の抗争

"愛すべき女王ベス" 16世紀後半

16世紀後半、イングランドの主権者として活躍したのが、ヘンリ8世の娘で女王のエリザベス1世である。エリザベス1世は、羊毛産業を保護して重商主義政策をとるなどして国が大きく発展し、国民からの信頼が厚かった。

特に、スペイン国王フェリペ2世の無敵艦隊(アマルダ)を破ったことで、1世の名は天下に轟くこととなる(詳細は下記)。スペインを負かしたエリザベス1世は、東インド会社を創設、沈んでいくスペインに対し、イングランドは旭日昇天の勢いであった。

 

アマルダ海戦(1588) 無敵艦隊は私掠船長で騎士のドレイクと嵐にボコボコにされた

スペインに対して独立戦争をしかけたネーテルランドは、ウィレムが死んで指導者を失うとイングランドに協力を求め、エリザベス1世はこれに応じた。それで、かねてから南米から銀を輸送するスペイン船を襲う活動をしていた私掠船(海賊船)に、勅許状を発布して略奪を公認した。特に船長フランシス=ドレイクは、イングランド初となる世界周航の功績により、エリザベス1世から騎士に叙され、後にも活躍することとなる。

これに対し、スペインはエリザベス1世暗殺を企てるが失敗。結局、無敵艦隊による実力行使で、貿易の妨害を止めさせることを決断する。スペインの作戦は、本国からの無敵艦隊とフランドル(南ネーテルランド)からの別動隊とを、ドーバー海峡で合流させ、そのままイングランドに上陸するというものだった。

しかし、スペインの作戦はちっとも上手くいかなかった。

まず、ドレイクが港を襲撃して物資を破壊したことで、スペイン無敵艦隊の出港が大幅に遅れることになった。

で、約一年遅れで無敵艦隊が出港し、やっとのことでドーバー海峡に到達すると、今度は合流する手筈になっていた別動隊の姿がない。陸上兵力満載の輸送船であった別動隊は私掠船に恐れをなして合流を拒んだのだ。

それで、もたもたしている間に、ドレイクが火のついた船を無敵艦隊めがけて放つと、混乱に陥ったところでイングランド海軍が艦砲射撃を繰り出した。スペインはまたもやドレイクにしてやられたのである。その結果、無敵艦隊のうち4隻が轟沈。やむなくブリテン島・アイルランドを東回りに迂回して帰国を目指した。

これがアマルダ海戦の一部始終である。この後、無敵艦隊は大西洋の嵐に幾度も曝され、スペインに着く頃には満身創痍でもはや使い物にならなかった無敵艦隊は、フランシス=ドレイクのイングランド艦隊と大西洋の荒波を前に壊滅したのである。

 

王と議会の対立 17世紀

国民から"愛すべき女王"と慕われたエリザベス1世はしかし、母がアン=ブーリンであったり、姉によってロンドン塔に幽閉されたりした過去があり、天涯孤独を貫いた。それで、処女王と呼ばれた1世の死を以てテューダー朝が断絶し、王位継承問題が浮上したのである。

王位は、ブリテン島北部のスコットランドジェームズ1世(位1603~25)が兼ねる形で継承された。スチュアート朝の始まりである。ここからイギリスは、王と議会の対立が続く

 

ジェームズ1世は、「王権は神から授けられた絶対の権利である」という「王権神授説」を唱え、独裁体制を布いた。その姿勢は、子で次の王であるチャールズ1世(位1625~49)に引き継がれ、親子共々イギリス国教会の信仰を強制した。

チャールズ1世が独断で課税しようとすると、議会の承認を経るよう求める「権利の請願」(1628)が提出されたので、議会を解散させてしまった。ところが凡そ10年後、スコットランドで大規模な反乱が起きると、今度は議会を招集して戦費調達の協力を取りつけようとしたのである。

当然、議会は王の虫の良さに腹を立て、早々に解散した(短期議会)。しかし、軍資金を得たいジェームズ1世は再び議会を招集する(長期議会)。今度の議会は長引き、次第に貴族たちは、王に味方する王党派と議会に味方する議会派とに分かれていった

 

束の間の共和政

ここで登場するのが議会派のクロムウェルである。クロムウェルは、国教会の強制によって禁止されたカルヴァン派*1の首領になると、鉄騎(Ironsides)と渾名される精鋭騎兵隊を率いて王党派を撃破する。そして、降伏したチャールズ1世を公開処刑(1649)し、クロムウェルをリーダーとする共和政を実現した。この一連の出来事をピューリタン革命(1640~60)という。

 

共和政イングランドを牽引したクロムウェルは、アイルランドを征服して併合する(1649)。更に、イングランド本土と植民地からオランダ船を締め出す航海法(1651)を定めて挑発し、イギリス=オランダ戦争(1652~74まで断続的に)に勝利した。これにより、スペインに次いで世界貿易を担っていたオランダの勢いを削ぎ、イングランドがその座を奪った。

 

しかし、1653年になると長期議会を解散し、自らは護国卿に就任した。護国卿とは、英国本土と植民地における世襲の主席行政官・治安官、つまり、事実上の独裁者である絶対王政を切り崩したクロムウェルは、自ら独裁者になったのである。

 

独裁、独裁、また独裁

事実上の独裁者となったクロムウェルに対し、当然国民は反発した。だから、クロムウェルの死後、彼の子が護国卿を継ぐことはなくフランスに亡命する。

その代わり、フランスに亡命していたスチュアート朝チャールズ2世(位1660~85)が新たな王として迎えられた。再びスチュアート朝が英国王の座に返り咲いたことを「王政復古」と呼ぶが、議会を蔑ろにした絶対王政もまた復活してしまう。チャールズ2世も、その弟のジェームズ2世(位1685~88)も議会を解散したのである。

 

外国人を国王にしよう

エリザベス1世を最後に、悪質な独裁が続いている現実を目の当たりにして、議会は一計を案ずる。それは、議会の尊重を条件として外国人を英国王に就任させるというものだった。

それで、白羽の矢が立ったのが、オラニエ公ウィレムの子でオランダ総督のウィリアム3世であった。彼は求めに応じ、妻のメアリ2世と共に軍勢を率いてブリテン島に上陸すると、貴族たちはそれに呼応してジェームズ2世に背いた。孤立したジェームズ2世は新たな国王を前にフランスに亡命した。

かくして、ウィリアム3世とメアリ2世が英国王となり、二人は王よりも議会の方が優位であることを宣言した「権利の宣言」に署名した。宣言は「権利の章典」として国民に発表され、英国王に対する議会の優越が確立されたのである。

議会の求めに応じてウィリアム3世夫婦が英国王となり、「権利の章典」が出るまで、ほとんど血が流れなかったことから、この無血革命は「名誉革命」(1688~89)と呼ばれている。

 

グレート=ブリテン王国

ウィリアム3世の死後、英国王にはジェームズ2世の娘・アンが就任する。アン(位1702~14)のとき、イングランド王国スコットランド王国が合同*2し、グレート=ブリテン王国(大ブリテンアイルランド連合王国が成立した(1707)。このとき、イングランドスコットランドの国旗が合体し、英国旗、所謂ユニオン=ジャックの3分の2が完成することになる。

 

アン女王の子が夭逝したため、女王を最後にスチュアート朝は断絶した。

それで、議会はイギリス王室の血を引くジョージ1世をドイツから迎えた。ハノーヴァー朝の始まりである。また、ジョージ1世は英語を話せなかったので、国王に対する議会の優越がますます強まった

 

復習:イギリスの議会

イングランドの議会の始まりはジョンの治世に遡る。

征服王ウィリアムのノルマン=コンクエストで成立したノルマン朝は100年ほどで滅亡し、代わりにフランスのアンジュー伯ヘンリ2世が、フランス西部を連れてプランタジネット朝を開く。ヘンリ2世の後は武勇でならした獅子心王リチャード1世だったが、その次のジョンは英国史上稀に見る暗君であった。ジョンの失策により、ヘンリ2世由来の大陸の領土をフランスに奪還されたり、教皇から破門を食らったりした。

そこで、王権を拘束しようとする動きが出てくる。その結果がマグナ=カルタ(1251)、つまり国王に王権の制限を誓わせる大憲章であった。

 

しかし、ジョンの後のヘンリ3世は、マグナ=カルタを無視して王権を行使しようとした。それで、貴族シモン=ド=モンフォールらは、貴族が政治について議論する議会の開催を認めさせた。これが英国議会の起源、シモン=ド=モンフォールの議会(1265)である。

その次のエドワード1世は、社会各層からなる「模範議会」(1295)をつくり、議会と協調姿勢をとった。ここに、議会が制度化されたのである。

 

まとめ中世末~近代初期の英国史

15世紀末~16世紀半ば:絶対王政の確立期

エドワード6世・メアリ1世を挟んでエリザベス1世へ。

 

16世紀後半:絶対王政の全盛期(テューダー朝エリザベス1世)

 

17世紀:王と議会の対立

絶対王政(17世紀前半)
  • ジェームズ1世:王権神授説を説いて絶対王政を布く
  • チャールズ1世:都合良く議会を解散・招集して反感を招く
②共和政(17世紀半ば)
  • 長期議会の中で貴族が王党派と議会派に分かれる。
  • 議会派でカルヴァン派首領のクロムウェルが頭角を現し、王党派を倒してチャールズ1世を処刑する(ピューリタン革命)。
  • アイルランドを征服したり、商売敵のオランダを破って世界貿易を先導したり。
  • 最終的に自らが独裁者となる。
③王政復古(17世紀後半)
④決着(17世紀末)
  • 議会はオランダ総督ウィリアム3世を召喚し、チャールズ2世を追い出す代わりに英国王に据える。
  • 英国王となったウィリアム3世夫婦は、国王に対する議会の優越を宣言する「権利の宣言」に署名し、「権利の章典」として国民に発表された。

 

18世紀初頭:グレート=ブリテン王国成立

  • ウィリアム3世の後を継いだアンの時、イングランドスコットランドが合同してグレート=ブリテン王国が誕生する。
  • アンを最後にスチュアート朝が断絶。代わりに、ドイツからジョージ1世を招いて英国王に据える。ジョージは英語が喋れなかったので、議会の優越が強まった。

 

参考

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0904-049.html

       https://www.y-history.net/appendix/wh1001-061.html

・世界戦史研究会(2017)『世界を変えた世紀の決戦 電子版』学研プラス

コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E9%A8%8E%E9%9A%8A-853736

*1:英国では「清教徒(ピューリタン)と呼ばれた

*2:議会をはじめとして行政法や組織が一つにまとまること