無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

読書記録:オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』

 

講義録「武士道的な弓道

ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルは、日本で弓道を学び、「無心」に至る体験をした。帰国後、それを講義したものが「武士道的な弓道」である。

講義の構成は、まず弓道についての説明。

  • 弓道(弓術)は戦場の表舞台から降りたことで、専ら"自らと向き合う"精神修養の術として嗜まれるようになった。
  • 諸武道・芸道の根本は禅である。弓道も座禅も、根本では同じである。

次に、実際の弓道体験を通じて「無心」を体感するまでの道のりが回顧され、最後にヨーロッパにおける哲学の理解への批判で締められている。

禅では不立文字と言うように、言葉による説明ではなく、実際に体感することを重んずるらしい。日常でも、"頭(言葉)で理解する"のと"実際に体験する"のとは全く違うことを実感するのだから、悟りや無心といったら猶更筆舌に尽くしがたいのだろう。

しかしヨーロッパでは、そうした実体験ではなく、文献等による言葉で理解したり、心理学的に理解したりしただけで、それを知った気になっている、というのがヘリゲルの主張の核であるようだ。

 

それはさておき、私としては、ヘリゲルが「無心」に至るまでの道のりに注目したいから、氏の師・阿波研造の言をメモしておこう。

脱力せよ

弓道はスポーツではありません。したがって、あなたの筋肉を発達させるようなことは何もしません。あなたは、腕の力によって弓を引っ張らず、弓を「精神的」に引くことを学ばねばなりません。 p,23

「力を抜け」。弓道に限らず、武道全般に通ずることだと思う。ここでは、力をつけるという小手先の技で中て射に奔ることを諫める意味合いがありそうだ。実際、達人ともなれば弓力など関係なく、鋭い一矢を放てると聞く。筋力によらず、力をできるだけ無駄にしないよう動員する"業"を鍛えたいものだな。

他方、そもそも武道の前身である古武道は、戦いの中で武士たちが試行錯誤して発展してきたもの。武道とは違って、体格も武器も異なる相手と闘わなければならないのだから、筋力に頼った闘い方は非合理的だ(体格に優る相手に勝てないから)。というわけで、体格によらず、重力や地面、身体の構造なんかを合理的に活用し、筋力がなくとも小柄であっても致命の一撃を与える術が考案された。それが武道に引き継がれていた名残、とも言えそうだ。

 

呼吸法

あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸しているからです。息をゆっくりと押し下げて、腹壁が適度に張るように、そこで息をしっかりと保ちなさい。 p,25

今度は呼吸法の話。居合道を習っていたときにも、腹式呼吸丹田へ意識を集中することはよく言われた。「腹で進む」的な感じ。要は、普通なら大きな動きのある腕とかに意識が持っていかれがちだが、そうではなく腹を中心にして動作する。腹が主であり、それ以外は副、といった感じかな。多分、もっと上位の領域があるはずだけど、今の自分にはそれくらいしか分からん。とにかく、今度弓を引くときは呼吸や丹田を重視しよう。

 

無心

あなたの一番の欠点は、まさにあなたがそのように立派な「意志」を持っていることです。・・・あなたは「無心」(absichtlos)であることを学ばねばなりません。射が自然に離れるまで、待たなければなりません。 p,27

 

術なき術は、あなたが完全に無我(ichlos)となり、自己自身をなくすところに本質があるのです。完全に無我であることがうまく出来るようになれば、射はうまくいくでしょう。 p,28

これですね。射法八節の7番目を「離れ」と、自動詞を名詞にして言うのは、自らの意識で「離れる」(放つ)のではないからだ、と弓道部時代に教わった。当時は、その教えをそのまま受け取って実践してはいたけど、今思えば全然深みが違う。これは、弓道の精神修養的な部分を重視するならば、殊に重要な教えだ。ただ、重要とは思っても、意識してはいけない。

 

無心になろうという執着

あなたは無心であるように努力しています。無心になろうと意図するから、それ以上進めないのです。 p,30

いよいよ禅っぽくなってきた。「執着をなくそう(無心になろう)」と"執着してしまう"。これを乗り越えなければならない。

また、ヘリゲルは的前に上がったとき、今度は的中への執着に囚われてしまった。

部活で弓道を選ぶと、否応なしに的中を気にせざるを得なくなる。大会じゃあ的中が勝負だからね。致し方ない感じもするけど、やはりこれでは折角弓道をやっている意味が半減するように思えるから、是非とも本当の無心を目指したい(という考えに囚われてもいけない。難しい)。

 

無心の心地

・・・真正の沈思においては、あらゆる思惟すること、意欲することだけでなく、感じること――これを気持ちがする、気分がする、あるいは自ら感じるなどと一般的に解してもよいですが――これらがすべて無くなってしまう・・・ p,41

最後はヘリゲル自身の言。無心体験をどうにか言葉にしようとしている。どうやら、本当に何もなくなるらしい。ただ、こればかりは実際に体感せねば分からない。