無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

読書記録:オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』2

 

「弓と禅」

本題の「弓と禅」は、簡単に言えば講義録「武士道的な弓道」を詳しく述べたものという印象を受けた。

構成は、ヘリゲル自身の心境や感覚、師弟のやりとりにより詳しく触れつつ、"無心の射"に至るまでの経過を記した後、『禅と日本文化』に拠りながら『不動智神妙録』に見える禅と武道の関係を解説するというものである。

 

その中で、特に注目に値するのが『不動智神妙録』の解説(「Ⅹ. 剣道と禅との関係」)だと思う。

その前の弓道を修めていたときの話は、正直言って日本語と相性の悪い表現が多くて、(禅特有の難解な表現とは別に)読みづらいと感じた。でも、「神妙録」の解説に関してはヘリゲル自身が「無心」体験者であるためか解りやすく、かつて『禅と日本文化』を読んだときの理解を補完してくれた。特に、弓道に関心がある人でなければ、はじめの講義録と最後の「神妙録」の部分だけでも十分収穫はあると思う。

では、「弓と禅」で得られたところをまとめておこう。

 

無心に至るまでの道のり

  • 初心者は先輩に敗れて自信を失うので、技の修練に取り組む。
  • 修練の結果、技巧は身につくが、道としての大成には微塵も近づいていない。それは、経験や戦術を意識して相手に対しているからである。
  • そこで、相手からも自分からも離れ、心の働きを自由にすることが目指される。即ち、無心の境地である。
  • 剣術であれば、さしずめ、相手の太刀を無意識に反射的に捌くこと、続いて、無意識に打ち込むことである。この間髪容れぬ石火の反応に至るのが難しい。
  • この無心の境地に至れば、もはや自分も相手も太刀も生死もなくなる。刀がひとりでに動いているような、第三の力(阿波師の言う"仏陀"だろうか)に舞わされているような、筆舌に尽くしがたい世界である。
  • ここにおいて、達人は初心者と同じくあらゆる悩み〔執着〕から自由になる。但し、そこには絶対的な平静が備わっている。

 

武士道の原動力? 

武士は名誉のために死を厭わないと言われるが、その理窟が分かったかもしれない。

 

今まで、無心というのは極度の集中状態とでも言うべきものかな?という認識だった。勿論、実際に体験しない限り断言できないし、するつもりもない(というより言葉では説明できないらしい)のだが、「弓と禅」は、もう一歩深い観念的理解を助けてくれた。

即ち、無心の境地とは「超越的な"何者"かが全てを動かしている」ような感覚であると。自分は何も考えていない、しかし誰かが体を剣を弓を動かしていて外さない。ある意味"自動的"であって、そこには絶対的な平静がある。そして、生と死が"同じ"になって恐れがなくなり、生きるときは喜んで生きるが、死の訪れをも全く平然と受け容れる

 

ここだ。

無心の境地に親しみ、いつでもスイッチを入れられるようなところまで来ると、いつ危機が訪れても体が勝手に動く。つまり、ここぞと言う時に、躊躇いなく(というより思惟することなく)刀を抜く。で、(心は平静を得ているから)平気で死地に飛び込む。だから、武士は死を厭わなかった・・・いや、死を問題にしなかった

辻褄が合う。勿論、武士の言動は必ずしも禅や武道に由来するものではなく、人並み外れた勇気の持ち主であったり、高い名誉心から勇敢に行動したり、ということもあっただろう。実際、武術に「心法」が重視されるようになったのは、江戸時代からと聞く。

ただ、武術などを究める過程で「業」と共に「無心」の境地を体得した侍が、無闇に抜刀することをしなくなり、しかし「ここは」というときには無心のままに相手を制する、という姿は想像に難くないのではないだろうか。もしかしたら、幕末の志士なんかはそれだったのかもしれない。

 

死の恐怖を別の何かでねじ伏せるのではなく、そもそも死を度外視していたから、果敢に行動できた――自分の中で新たな有力説が生まれた。

そして、それならば、如何なる志でも貫徹できるだろう。 

 

〔無心の境地に至った者・達人〕は、生の不安と死の恐怖が何であるかもはや知らない。 p,157