無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

アメリカ合衆国 (市民革命の先駆け――アメリカ独立革命)

 

市民革命

中世の後半から近世にかけ、ヨーロッパ諸国は王権を強化して絶対王政を布いた。即ち、国中が国王の意志に絶対的に服従する社会である。絶対王政主権国家と密接不可分であり、泥沼化した三十年戦争からウェストファリア条約にかけて確立したと言われている。

そうした国家の在り方に変革の時が訪れる。それが市民革命である。この革命によって目指されるのは、国民の代表によって国の方針が議論され、国民の合意による「法」で運営する国家である。言わば、市民革命とは「王の国家」から「人の国家」への変革である。

18世紀後半のアメリカ独立革命は、市民革命の嚆矢であった。

 

アメリカ独立革命

アメリカの植民地

17~18世紀前半、イギリスはヴァージニアをはじめとして、北米に13の植民地を設けた。ただそのルーツは、カトリック派やカルヴァン派信者がイギリス国教会の圧力を逃れるためであったり、自らの所領を得るためであったり、英国王から与えられたためであったりとまちまちで、13植民地の間に連携関係はなかった

 

それらが団結してイギリスと戦ったのが、革命の山場・アメリカ独立戦争(1775~83)である。そのきっかけは、七年戦争の陰で行われたフレンチ=インディアン戦争(1754~63)だった。

フレンチ=インディアン戦争では、イギリスとフランスがアメリカの植民地を巡って争い、イギリス側の勝利に終わった。締結されたパリ条約(1763)では、イギリスが「ミシシッピ川以東のルイジアナ」を獲得する。13植民地はいずれも東海岸沿いだったから、それより内陸にあるルイジアナの東側がイギリスの手に落ちたことで、フランスに脅かされることがなくなったのである。

その一方で、問題となったのが戦費の調達だった。イギリス本国は、羊毛品をはじめとして、砂糖やワインなど、ありとあらゆる税を13植民地に課すことで戦費を賄っていたのである。そして、本国が印紙法(1765)で文書に手数料を課したとき、「代表無くして課税なし("No Taxition without Representation.")」、即ち、英本国は植民地の議会に代表を送っていないのだから我々に課税する権利はないと反駁した。

13植民地は、フランスの脅威が去っても尚続いた英本国の都合による一方的な重税を前に一致団結したのである。

 

Tea Act

アメリカ13植民地はイギリス本国に対して反抗した。しかし、尚も本国は強硬姿勢を崩さず、1773年に茶法東インド会社にお茶の独占販売権を付与する法律)を制定した。ここで遂に、アメリカとイギリスの対立が決定的になる植民地の急進派が、ボストン港に停泊していた東インド会社の船舶を襲撃し、積み荷の茶を海へ投げ捨てたのだ。これが世に言う「ボストン茶会事件」(1773)である。

英本国はこれを反逆と見做すが、対する植民地側も第一回大陸会議(1774)をフィラデルフィアに開催して団結を強めた。

 

独立戦争

かくして始まったアメリカ独立戦争(1775~1783)――13植民地によるイギリス本国への挑戦。・・・と言えば聞こえは良いが、イギリスの正規軍に対して植民地の民兵が戦うというのは分が悪いと言わざるをえない。

そこで植民地側では、トマス=ペインが『コモン=センス』で独立の正当性を平易に説いたり、トマス=ジェファソンらが「独立宣言」(7月4日)を作成したりして、世論を高めた

更に、イギリスを敵対視する諸国とも協力関係を結ぶ。例えば、フランス・スペイン・オランダは植民地側に味方する形で参戦し、ロシアのエカチェリーナ2世はイギリスと中立を保ちつつも、アメリカに物資を輸送した。

そして、"建国の英雄"ワシントン率いるアメリカ軍は、ヨークタウンの戦い(1781)でイギリス軍に対して決定的な勝利を収め、パリ条約(1783)が結ばれた。このパリ条約では、イギリスがアメリカの独立を認めると共に、ミシシッピ川以東のルイジアナアメリカに譲渡した

 

それから4年後の1787年人民主権を明記する合衆国憲法が制定され、共和政・民主主義国家のアメリカ合衆国が成立するのである。

 

~参考~

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版