無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

フランス革命① 打倒、旧体制。

 

フランス革命の始まり

フランス革命は、アメリカ独立革命に次ぐ市民革命である。フランス市民は、この革命によって、特権階級によって第三身分(平民)が虐げられる旧体制(アンシャン=レジーム)からの脱却を果たす。

時は18世紀後半、絶対王政謳歌した「太陽王ルイ14世の治世から凡そ90年。フランスは、14世によるヴェルサイユ宮殿建設や積極的な対外戦争に続き、時のルイ16世アメリカ独立戦争参戦により、深刻な財政難に陥っていた。

16世は、平民への増税でこれに対応しようと考えたが、既に平民は重税に喘いでいる。となると、特権階級の第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)に課税するしかない。当然彼らは反発し、三部会の開催を要求した。16世はこれに応えた。ここに、革命へのカウントダウンが始まる。

 

1789年

1789年5月、三部会が開催された。

会は、今まで通り課税を免れたい第一・第二身分と、特権階級に税を払わせたい第三身分とが対立するという構図になり、膠着状態が続く

 

そこで、6月、第三身分が動く。

彼らは、三部会を離脱して「国民議会」を名乗ろうとした。しかし、16世は平民の単独行動を許さず、三部会から追放。すると、三身分は球戯場を議場として集い、国民議会成立を宣言すると共に、「自らの手で憲法を制定するまで解散しない」という"テニスコートの誓い"を行った

これに対し、王は武力弾圧を挙行した。ルイ16世自身は国民議会を承認するなど穏健的だったが、王妃であるマリ=アントワネットらは強硬姿勢を崩さなかったのだ。

 

7月、民衆は王国による弾圧に対して武力で応えた

即ち、バスティーユ牢獄襲撃である。

バスティーユ牢獄は、数多の政治犯を収容する"圧政"の象徴であり、それを襲撃することは、まさに反抗の意志表示であった。また、牢獄の武器を奪取するという戦略的な意図もあったようだ。これを境に、パリでは民衆と王国軍との抗争が続き、次第に町は荒廃していった。

8月、民衆は更に、ラ=ファイエットが起草した「フランス人権宣言」を発表。自らの正当性を示すと共に、自由・平等・国民主権の国家を目指した。

 

10月、パリの主婦、キレる。

当時、バスティーユ牢獄襲撃以降の争乱と折からの凶作とにより、パリ市民への食料供給が滞っていた。それで、パリ市民の怒りの矛先がフランス王家に向かい、大勢の主婦たちが食糧を求めてヴェルサイユ宮殿に押し掛ける「ヴェルサイユ行進」が起こったのである。これにより、ルイ一家はパリに連行され、市民の監視下に置かれることとなった

 

王家と市民の訣別 1791.6

さて、ヴェルサイユ行進で連行されたルイ一家は、1791年、オーストリア領への亡命を図る。オーストリアはマリ=アントワネットの実家である。 

しかし、国王一家はヴァレンヌで逮捕され、未遂に終わった。このフランス国王一家の逃亡未遂を「ヴァレンヌ逃亡事件」という。

 

これにより、国王に対するパリ市民の感情は失望へと変じてしまった。平民にとっては特権階級への課税こそが本望であり、絶対王政を覆すことではなかった。ところが、最早国王に王としての矜持がないと分かった市民は、王権の制限を考え始めたのである。

それで、国民議会は「1791年憲法」を制定して王権を大幅に制限した(1791.9)。

 

立法議会 1791.10~1792.9

残すか消すか

フランス史上初の憲法制定により、国民議会は立法議会と名を改め、10月に招集された。

議会は、「フイヤン派」と「ジロンド派」とが対決する形となった。

  • フイヤン派・・・特権階級や上流市民で構成される。「立憲君主制」(国王は存続させるが、王権を上回る法律で国を運営する体制)を支持する。
  • ジロンド派・・・中流下流市民による穏健共和派。「共和制」(王制を廃止し、憲法によって国家を統治する体制)を支持する。

 

要は、"国王を残すか消すか"が争点になった訳だが、次第に"消す"方のジロンド派が優勢になっていく。

すると、フランス市民はオーストリアに宣戦布告した。なぜか?

当時、フランス国内での動向は、周辺諸国にとっても一大関心事だった。フランス革命が成立すれば、市民による絶対王政転覆の先例ができることになり、自分もまた二の舞を演じることになるのではないかと、各国の国王は恐れたからである。

その中でも、オーストリアはマリ=アントワネットの実家であることもあり、積極的にフランスに介入して絶対王政存続を図っていたのだ。

 

フランス革命阻止を目的に、オーストリアプロイセンの正規軍がフランスに入ると、フランス市民(民兵)は苦戦を強いられる。そうした中、「苦戦を強いられているのは、ルイ一家が情報を漏らしているからだ」という噂が立ち、国王に対する市民の目線は、失望から敵視へと変わっていった。最早、革命軍が敗れない限り、断頭台行きは免れないところまで来てしまったのである。

 

La Marseillaise

苦戦する民兵の元に、フランス全土から義勇軍が集う。

彼らは、「方々から襲来する諸外国の軍勢から祖国を守る」という共通認識で参戦した。このとき、マルセイユ義勇軍が歌ったのが"La Marseillaise(ラ・マルセイエーズ)"で、現在のフランス国歌である。また、"Bleu, blanc et rouge(青・白・赤)"の三色旗は、フイヤン派でフランス人権宣言の起草者で知られるラ=ファイエットが、ブルボン家(白)とパリ(青・赤)の調和のために用いたと言われる。

つまり、立法議会から絶対王政の存亡をかけた対外戦争の過程で、「フランス国民」としての意識が芽生えたのである。

 

さて、義勇軍の助太刀を得た革命軍は、ヴァルミーの戦い(1792.9)でプロイセンオーストリア連合軍に勝利し、勢いを盛り返す。その一方で、ヴェルサイユ行進以降、ルイ一家が入っていたテュイルリー宮殿を襲撃して王権を停止、タンブル塔に幽閉した8月10日事件:1792.8)。

 

第一共和政 1792.9~1793.5

断頭台

8月10日事件と共に男子普通選挙が行われ、新たな議会「国民公会」が成立する。国民公会は、王政廃止と共和政樹立を宣言し、フランス史上初の共和政――王のいない政治が実現する

そして、1793年1月、ルイ16世は、革命広場(現コンコルド広場)にて首を落とされた

 

危機再び

フランスで絶対王政が覆された。

この報は、諸国の王を震撼させたに違いない。

それを裏づけるかのように、周辺諸国は"フランス第一共和政潰し"に動き始める。特に、イギリスの首相ピットの提唱で第一回対仏大同盟が結成され、フランスはヨーロッパ中を相手にすることになった。

 

こうなると、強いリーダーシップが必要になる。

そこで抬頭したのが、急進共和派の「ジャコバン派」である。ジャコバン派は、"サンキュロット"(都市の職人・労働者)や小作農から成る派閥で、ロベスピエールを中心に活動した。

第一回対仏大同盟結成の後、ジロンド派を追いやり、ロベスピエールが独裁を布いたのである。

その上で、農奴解放や最高価格令などといった救済政策で農民・下層市民を救う一方、徴兵制を導入した。徴兵制は、国民国家の幕開けを象徴する。

こうした政策によって、第一回対仏大同盟の危機は次第に去っていった。ところが、ロベスピエールは更に独裁を強化していき、反対派だけでなく同じジャコバン派の人間にさえ手をかけた。その政治はまさしく「恐怖政治」であった。ちなみに、マリ=アントワネットが処刑されたのも、この恐怖政治下である。

しかし、最高価格令は商業活動の妨げになっていたことから、次第に市民の不満は募り、やがてロベスピエールは逮捕・処刑された(テルミドール9日のクーデタ:1794.7)。

 

~参考~

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版