無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

フランス革命② ナポレオン・ボナパルト

 

危機、再来。そして英雄。

テルミドール9日のクーデタで、急進共和派(ジャコバン派)の独裁は終焉を迎えた。その後、フランスでは、独裁に対する人々の心情を反映するかのように、5人の総裁による「総裁政府」が発足する。しかし、権力が5人に分散したことで政治は迷走し始めてしまう。

 

今、フランスに再び強力なリーダーが求められた。

そこに颯爽と現れたのが、ナポレオン・ボナパルトである。

人々は、イタリア遠征(1796.3)やエジプト遠征(1798.5:英国とインドの連絡を断った)で名を挙げたナポレオンに、国家の行く末を賭けたのであった。

そんな彼に、総裁のシェイエスは軍事クーデタを持ちかける。実のところ、最終的にはシェイエスが出し抜くつもりだったのだが、結局ナポレオンがクーデタと同時に"第一統領"を名乗り、「統領政府」を樹立したので失敗に終わった。このクーデタは、「ブリュメール18日のクーデタ」(1799)と呼ばれ、一般にはフランス革命の終わりとされる。

ちなみに、"テルミドール"や"ブリュメール"は国民公会が定めた「革命暦(共和暦)」と呼ばれるもので、キリスト教支配からの脱却を図るものであった。

 

一方、周辺諸国第二回対仏大同盟を結成してナポレオンの対外進出に対抗する。しかし、フランスとの間にアミアンの和約(1802)が結ばれて同盟は解消された。

その後、ナポレオンは民法典・「ナポレオン法典」(1804)を制定する。そして、国民の投票によって皇帝に就任した。これがフランス第一帝政の始まりである。

 

解放者から抑圧者へ

フランスは遂に、"王を倒し"、"王がいない期間"を経て、"国民の総意で独裁者を選ぶ"段階に来た。皇帝・ナポレオンは、"国民の総意によって選ばれた"ことを大義に、積極的な対外戦争を仕掛けた

 

西はスペイン、東は東欧まで

1805年、ナポレオンはフランスの宿敵・イギリスとトラファルガーの海戦で衝突する。しかし、敗北して上陸はならなかった。

他方、同年、オーストリア・ロシア連合軍をアウステルリッツ三帝会戦で破り、翌年にはプロイセンをも征服した。このとき、プロイセンに勝利して得たドイツ領を従属国・「ライン同盟」としたので、神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡した。962年に東フランク王国のオットー1世に始まって以来、実に844年もの年月を経ていた。

 

イギリスが落とせない

かくしてナポレオンは急速に版図を拡大し、西はスペイン、東はポーランドハンガリーまでもがフランスの支配下に入った。

ただ、僅かに海を隔てているだけのイギリスには上陸すら成功していなかった。そこでナポレオンは、大陸封鎖令(1806)で欧州諸国にイギリスとの貿易を禁じ、経済を停滞させるという"兵糧攻め"に打って出た。

だが、ロシア皇帝アレクサンドル1世が密かに穀物を輸出していることが判明。そこで、ナポレオンはモスクワ遠征(1812)で制裁を加えようとするのだが・・・これが凋落の始まりだった。

 

ロシア(モスクワ)遠征

フランスや同盟国の兵からなるナポレオン軍は、ロシアに向けて進撃した。6月に進発し、9月にはモスクワに入城。その間ロシア軍が攻勢に出ることはなく、退却を繰り返していた。しかしこれこそ、ロシア側の策略であった。

ほどなくして冬将軍に見舞われたナポレオン軍は、食糧不足や奇襲によって退却の最中に続々と数を減らした。一説によれば、元は61万とも言われた兵が5000にまで減ったという。モスクワ遠征は大敗北に終わった。

 

翌年、ナポレオンはライプチヒの戦い(諸国民戦争:1813)で、プロイセンオーストリア・ロシア・スウェーデン連合軍に敗北し、没落は決定的に。その後、退位に追い込まれ、エルバ島に流された(1814)。

 

 

ウィーン会議(1814~15)

ナポレオンが流され、一件落着と見たヨーロッパ諸国は、戦後処理に取り組みだした。それが、オーストリアのウィーンで開催されたウィーン会議(1814.9~15.6)である。

ウィーン会議の基調は「正統主義」、即ち、"ヨーロッパをナポレオン戦争以前の状態に戻す"ことでフランス革命をなかったことにするというものである。要は、国王の斬首からの共和政を否定し、絶対王政を良しとしたいというのが、諸国王の本音であった。

ところが、自国の利益を増やしたい各国の思惑が互いにぶつかりまくったので、領土の分配などの案件が全然まとまらなかった。それに対し、夜の舞踏会は連日行われたので、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたのだ。

 

そんなとき、呑気に宴に興じる諸国の権力者の肝を冷やす一報が入る。

――ナポレオンがエルバ島を脱出した。

 

この事件をきっかけに会議は急速にまとまり、1815年6月、諸国がウィーン議定書に調印した。

その結果、イギリスやロシアはナポレオンを破った功績から領土を拡張した一方、フランスではブルボン朝が再興、ナポレオンの支配下にあったスペインやプロイセンオーストリアも領土を回復して復活した

また、再度革命が起きたとき、共同で鎮圧に動く「神聖同盟」(英・ベルギー他)・「四国同盟」(墺・露・英・プロイセン)が結ばれた。

 

他方、ナポレオンはエルバ島を脱出した後、再び皇帝となる。そして、ベルギーのワーテルローでイギリスをはじめとする連合軍と衝突し、敗れた(ワーテルローの戦い:1815)。

ナポレオンは大西洋の孤島「セントヘレナ島」に流され、今度こそ戻ることはなかった。彼が帝位に返り咲いたこの一刹那は、「百日天下」と呼ばれている。

 

革命の時代の幕開け

フランス革命は、国王・君主に恐怖を与えた一方、民衆には希望を与えた。自由に政治に参加してリーダーを決め、農地に縛りつけられて労働に従事させられることもない――そこには自由があった。

従って、革命を帳消しにする方向で合致した国王・君主たちに対し、民衆は自由や権利を求める方向に動いた。その表れが自由主義運動であり、19世紀に起こった夥しい数の革命なのである。ここに、フランスに始まるナショナリズムの広がりを見てとることができる。

 

 

~参考~

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1103_2-009.html

       https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-067.html

       https://www.y-history.net/appendix/wh0601-095.html#wh1103_2-028

       https://www.y-history.net/appendix/wh1201-001.html