無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

19世紀のフランスと諸国民の春

 

ナポレオン戦争後のウィーン会議は、戦前の絶対王政を復元する正統主義でまとまった。それは、ルイ16世と同じ轍を踏むまいとする、諸国王・皇帝の気持ちの表れであった。

ところが、フランス革命の成功とナポレオンの活躍は、民衆に「革命」という"希望"を与えた。時の権力者の思いとは裏腹に、時代は前代未聞の"革命の時代"に突入していくのである。

 

フランス—―ブルボン復古王政

七月革命(1830.7)

ウィーン会議の末、フランスではルイ18世(位1814~1824)が即位し、ブルボン朝が復活した。18世は議会に協力的な姿勢を示したが、特権階級を重んじたため国民から失望されてしまった。

更に、弟のシャルル10世(位1824~30)は議会を解散して独裁と絶対主義を強化。国民の不満を逸らすためにアルジェリア出兵(1830)を敢行するが、結局パリ市民による反乱を招いた。そして、シャルル10世が亡命したことでブルボン朝は再び倒れたのである。

代わりに、自由主義で知られたオルレアン家ルイ=フィリップ(位1830~48)が新たな王となり、「七月王政」が始まった。この一連の革命は「七月革命」と呼ばれる。

 

二月革命(1848.2)

「国民王」と呼ばれて期待されたルイ=フィリップだったが、いざ王位に就いてみれば極端な制限選挙で富豪を優遇する「株屋の王」であった。蔑ろにされた農民や労働者は不満を募らせ、次第に共和政への回帰を目指す雰囲気が醸成されていく。

それで、最終的には再び革命が起き、1848年にルイ=フィリップが亡命したため、フランスに再度共和政が実現することとなった。この革命を「二月革命」、その末に成立した政権を「(フランス)第二共和政」と呼ぶ。

 

第二共和政(1848~52)

国王を廃して権力を手に入れた第二共和政であったが、早速「農民と労働者の対立」という問題に直面する。

農民も労働者も、社会構造の中では下層に属する貧しい階級である。ただ、農民は農地をもっていたのに対し、労働者は我が身一つという差があった。

すると、労働者は「社会主義」を支持するが、農民はそれに反対するという対立構図が完成する。

なぜなら、社会主義が目指す国家とは、全ての土地や工場を国有化し、政府が定めた生産計画に基づいて国民が働き、全国民が平等に生産物を受け取るというシステムだったからである。つまり、同じ下層市民であっても、農民は農地を取り上げられるが、労働者は失うものがないという違いがあったのだ。

 

絶対的存在である「王」を廃してしまった手前、この問題を解決できるのは自分達しかいない・・・。農民と労働者の対立が深まり、社会不安が高まる中、「王」という存在が良くも悪しくも秩序を保っていたのだと、気づかされた者もいたかもしれない。

 

そんなとき、一躍脚光を浴びた男がいた。

ルイ=ナポレオン

ナポレオン=ボナパルトの一門にして甥。

ナポレオンの名を冠する男に、国民は希望を見出したのだろう。ルイ=ナポレオンは、国民投票で皇帝となり、ナポレオン3世として第二帝政を主導したのである。

 

 

第二帝政(1852~70)

市民の対立の解決を担ったナポレオン3世(位1852~70)は、ありとあらゆる手段を使って問題を棚上げし、社会不安を解消していった

  • パリ市改造:オスマンを起用し、道路網や公園・広場、上下水道を整備したり、街灯を増設したりして、パリの人口増加に対応した。近代的なパリが完成する。
  • パリ万国博覧会(1855)
  • スエズ運河開通(1869)
  • クリミア戦争(1853~56):エルサレムの管理権を巡ってトルコに南進しようとするロシアを、トルコや英仏が連合して阻止した。
  • アロー戦争(1856~60):清国が英国船「アロー号」の中国人乗組員を捕縛して英国旗を降ろさせたことに対し、英仏が共同出兵した。
  • インドシナ出兵(1858~67):宣教師殺害に対する賠償を名目にフランスがスペインと共同してベトナムに出兵した。
  • イタリア統一戦争(1859):サルデーニャ王国がイタリア統一を目指してオーストリアに立ち向かった。ナポレオン3世はサルデーニャを支援したが、オーストリアと単独講和を結び、イタリア統一を頓挫させた。

特に積極的な対外遠征で度重なる勝利を得たことで、ナポレオン3世の人気は鰻登り。社会不安は次第に薄らいでいった

しかし、メキシコ出兵(1861~67:メキシコに衛星国をつくろうとして出兵した)に失敗し、プロイセン=フランス戦争普仏戦争:1871)でビスマルク率いるプロイセンに敗れた3世が捕縛されると、第二帝政は終焉を迎えた

 

その後、フランスの臨時政府は、ドイツ帝国普仏戦争勝利後、ヴェルサイユ宮殿で皇帝戴冠式を行った)にアルザス・ロレーヌを割譲することで講和した。

それに対し、パリ市民の一部は不満を爆発させて暴動に発展した。終には、パリ=コミューンと呼ばれる自治政府を樹立するが、プロイセンの支援を受けた臨時政府のティエールによって弾圧された。

 

この一件で、パリ市民のドイツに対する憎悪が募り、後に禍根を残すこととなったと言われている。

 

この後、ティエールを初代大統領とする第三共和政が成立し、ようやく政情が安定した。

 

革命の伝播――「諸国民の春」

革命の本場(?)・フランスで再度成立した革命は、ヨーロッパ諸国の民衆の背中を後押しした。独立や民衆の権利拡大を求め、「革命」に挑戦する風潮が巻き起こったのである

 

まず、ブルボン復古王政に失望したフランス市民による七月革命」は、南ネーテルランドやポーランド独立運動に火を点けた。その内、南ネーテルランドはオランダの支配を退けてベルギーとして独立することに成功した。他方、ロシアに挑んだポーランドは、一時的に革命政府を成立したが、オーストリアプロイセンの横槍で失敗に終わった。ポーランドの音楽家ショパンは、革命失敗の報を聞いて悲しみに暮れる中、「革命」を作曲したという。

 

一方「二月革命」は、プロイセンオーストリアの「三月革命」や英国の「チャーティスト運動」を刺激した。

ウィーン体制で発足したドイツ連邦では、フランスの二月革命に触発され、自由主義を訴える暴動が相次いだ。特に、連邦の二大構成国家であるプロイセンオーストリアでは、それぞれの首都(ベルリンとウィーン)で反乱が起こり、前者は憲法制定の約束を取り付け、後者は宰相メッテルニヒ解任を実現させた。

他方、英国では、七月革命の際に第一回選挙法改正が行われていたが、労働者は選挙権を認められなかった。そこで、労働者が選挙権の拡大を訴える「チャーティスト運動」を起こしていたのだが、二月革命成功を期に大きな盛り上がりを見せたのである。

 

このように、フランス二月革命はヨーロッパ中に革命の嵐を巻き起こした。このとき、諸国で起きた反乱・暴動・革命をまとめて「諸国民の春」と呼ぶ

 

ウィーン体制は音を立てて崩壊したのであった。

 

~参考~

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1201-111.html#wh1201-112

       https://www.y-history.net/appendix/wh1201-071.html

       https://www.y-history.net/appendix/wh1302-079.html

       https://www.y-history.net/appendix/wh1202-115.html

コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89-486296

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89-28932

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%88%A6%E4%BA%89-433115