無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

特別である必要はない

自分は話しかけられても全然構わないのに、自分が他人に話しかけるのは相手の迷惑になると何故か考えてしまう。

 

そう感じる場合、ある意味自分を"特別視"しているのかもしれん。

ただ、それは必ずしも"自惚れ"ではなく、"自己否定"であることもある。

つまり、「自分は悪い意味で普通の人とは違う」「普通の人より劣っている」と考え、自分を普通ではないものとして扱っている。

 

そのきっかけは人それぞれで、他者がとやかく論ずべきことではないだろう。大抵、その人の力ではどうしようもなかったことなのではないか、という気もするが。

 

ただ一つ言えるのは、普通でない人間なんて滅多にいないということだ。

特に幼い頃は、無責任な大人の煽りで「特別であること」に価値があると思いこむことも多々あるだろうが、大人になると分かる。ほとんどの人間は"普通"だ(まぁ、その"普通"とやらが具体的にどういうことなのか明確にするのは難しいが・・・さしずめ、"自分の特徴が他者や社会に大きな影響を与えない"といったところだろう)。

 

いや、自分はその"滅多"なのかもしれないではないか。

そう思うならば、"普通"について考えてみよう。

 

"普通"であることは全く悪いことではない。寧ろ、"特別"というのは見方を変えれば"異常"なのだから、それがうじゃうじゃいる社会なんて上手く立ち行かぬ。"普通"であることは至極当然のことなのだ。

 

だから、「自分は特別だ」とも「特別でなければならない」とも思わずに、自分の心の赴くままに活きる方が断然良いと思う。無理をして自分を歪めてはいけない。無理は無理だ。良いことなどありゃしない。

大体、「特別であれ」などと、何の権限を以て言うのか。自分は他人の生き方を規定できるほどの傑物だとでも思っているのだろうか。傲慢も甚だしい。

 

そして、何よりも自己否定感を盾にしないことが大切。

「自分は劣った存在なんだ」「そうあるべきなんだ」というのは、現状の打開を諦めるための言い訳に使えてしまう。

そのとき、人生は進歩を忘れる。

 

愚かで傲慢な大人共を見返してやるのか、その詭弁に翻弄されて終わるのか。

その命運はあくまでも自分が握っている。たとえ八方塞がり、打開のしようがないように見えても、どこかにほころびがあるはずである。