世の人はほとんどが"普通"であって、それは至極当然のことだから、"特別"であろうとする必要はないのではないか、という話をした。
それは言い換えれば、この世の人間のほとんどはいてもいなくても良い、存在意義がない、ということである。これについて考えよう。
結論から言えば、それは憂うべきことではなく、むしろ喜ぶべきことだと思う。
なぜなら、存在意義がなければこそ"自由"があるからだ。
そもそも、生まれた瞬間から存在意義のある人とはどんな人だろうか。
王族の子孫、古くからの伝統をもつ名家の子、医者の子ども・・・。
早い話、"跡継ぎ"がそれにあたるのだと思う。統治者として、あるいは伝統芸能や武芸の家元として次世代を担う人。親の医院を受け継ぐ者。
彼らは屹度、その役割を担う存在として期待され、相応の教育を受けてきたことだろう。先祖代々が受け継いできたのであれば、遺伝子的にもその役割に相応しいものをもっているのかもしれない。だから、傍目には優れた人物に見えることも多々あるだろう。
しかし、そこに本人の意思があったかどうかは分からない。幼いときから"役割"を継ぐのは当然と教え込まれ、自分の意思を述べる機会すら与えられなかったのかもしれない。
次世代を継ぐ者として"役割"を世襲し、周囲の期待に応えるようにその力を遺憾なく発揮していたとしても、それが本当にその人のやりたかったことかどうかは分からないのである。
継ぐことは宿命に囚われること。
そこに存在意義は見いだせても、自由はない。
こうして考えてみれば、存在意義がないことは、決して悪いことではないと思えないだろうか。存在意義のない塵芥であればこそ、何も与えられなかった者であればこそ、選ぶ自由があるのではないだろうか。
与えられるのを俟ったり、誰も与えてくれなかったと嘆いたりするのではなく、自ら取りに行く。選ぶ。そういった人間でありたいものだ。