無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

19世紀のドイツ——出遅れた統一への歩み

 

フランス革命によって絶対王政が共和政へと革められたことは、欧州各国に反乱や革命の嵐を呼んだ。イギリスでは議会が強かった故に、民衆の権利や自由の拡大が議会を通じてなされ、フランスでは適切な政治体制を目指し、絶対王政→共和政→帝政→共和政と度々革命が起こった。両者はいずれも、民衆発の改革――「下からの改革」である。

それに対し、「上からの改革」がなされたのがドイツである。小国の寄せ集め状態を解消できていなかったドイツでは、まず国家の統一が急務であった。19世紀のドイツでは、"鉄血宰相"ビスマルクによって、国家主導の統一事業が進められていくのである。

 

 

復習:これまでのドイツ

9世紀:神聖ローマ帝国

カール大帝の下で繁栄したフランク王国は、その死後、孫の代で3つに分裂する。その内、東フランク王国と言われた部分が、ドイツの起源である。東フランク王国は、オットー1世がローマ教皇から戴冠したことで、神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる。

 

11世紀:カノッサの屈辱

神聖ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動で拠り所を失ったローマ教皇(教会)の庇護者となった訳だが、国内をまとめ上げる求心力に欠けていた。その一方で、ローマ教会は次第に現実世界への影響力を強め、事実上の封建領主となっていく。十分の一税を農民に課したことなどは、それを物語る。

そして、11世紀になると完全に力関係が逆転する。それを象徴するのがカノッサの屈辱(1077)で、時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、聖職を任命する権利(叙任権)を取り上げられて家臣に背かれ、ローマ教皇に泣きつく他なかったのだ。

 

その後も、ローマを手に入れるべくイタリアに進出するのに躍起になり、国内の統一はちっとも進まぬまま中世を終える。

 

16世紀:宗教改革

十字軍の度重なる失敗によるローマ教会の失墜に加え、ヨーロッパ情勢が全体的に安定してきたことで、人々は神の支配からの脱却の道を歩んだ。ルネサンスである。

それと時を同じくして、神聖ローマ帝国ではマルティン=ルターが免罪符と教会の堕落を痛烈に批判した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒの助けで皇帝カール5世と教皇レオ10世の追求を逃れると、新約聖書のドイツ語訳を民衆に広めた。これにより教会の堕落ぶりが明るみに出て、国内では皇帝や教皇に対する反発が強まった。

結局、皇帝はアウクスブルクの和議(1555)で、諸侯・都市の信教の自由を認め、国内の分裂を防いだのである。

 

17世紀:三十年戦争

ところが、諸侯や都市がルター派ないしカトリック派という姿勢を明らかにしたことで、帝国内は両派が複雑に入り組む状態になり、新たな軋轢を生んでしまう。

その極致が、三十年戦争(1618~48)である。カトリック派とルター派カルヴァン派が争ったこの戦争は、最後にして最大の宗教戦争となり、ドイツの人口の3分の2を失ったと言われる。

最終的にはウェストファリア条約(1648)が締結され、帝国内の諸侯が主権を認められたことで神聖ローマ帝国は有名無実のものとなった。

 

18世紀:プロイセンオーストリアの抗争はじまる

ウェストファリア条約の後、新興勢力のプロイセンと古豪のオーストリアとが、ドイツの主導権を巡って争った。オーストリア王位をマリア=テレジアが継ごうとしたことにフリードリヒ2世が反発して勃発したオーストリア継承戦争(1740~48)、オーストリア失地回復を図って発生した七年戦争(1756~63)は、それを物語っている。

 

19世紀:上からの統一へ

ナポレオン戦争

ナポレオン戦争後、原状回復と絶対王政の存続(正統主義)でまとまったウィーン会議(1814~15)の結果、神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡し、プロイセンを含むドイツ連邦が成立した。

とはいえ、それはドイツの統一を意味するものではなく、小国の寄せ集めの域を出なかった。相変わらず、国同士が経済的にも政治的にも独立して反目し合っていたのである。

そこで、プロイセン関税同盟(1834)を提案して"経済的な一体化"を図るも、ライバルのオーストリアが参加せず。続いて三月革命後、連邦各地から選挙で選ばれた議員が一堂に会し、国の在り方を議論した(フランクフルト国民会議(1848))が、またもオーストリアと衝突した。国民会議では、"オーストリアを含めてドイツ連邦である"とする「大ドイツ主義」ではなく、"オーストリアを除いて良い"とする「小ドイツ主義」がとられ、ドイツ統一への道は拓かれなかった

 

鉄血宰相の登場

この状況を打破するきっかけとなったのが、ヴィルヘルム1世プロイセン王位継承と首相のビスマルク(位1862~90)の登場である。

ビスマルクは、「言論や多数決ではドイツ統一は成し得ない」、「鉄と血によってこそ問題は解決されるのだ」、つまり、軍備増強と戦争によってこそドイツ統一は成し遂げられると主張し、軍制改革を推し進めた。このような彼の主張は、その演説から「鉄血政策」と呼ばれ、彼自身も鉄血宰相と渾名されるようになった。

 

北ドイツ連邦の発足

ビスマルクに主導されたプロイセンは、オーストリアと共にデンマーク戦争(1864)を戦い勝利すると、大国化への足掛かりを得ると共に、戦後処理での揉め事を理由にオーストリアを挑発。プロイセンオーストリア戦争普墺戦争:1866)を引き起こすことに成功する。

戦争は一瞬でプロイセン方の勝利に終わり、ドイツ連邦の解体と同時にオーストリアを締め出した「北ドイツ連邦」を発足させ、プロイセンが北ドイツ一帯を手中に収めた

敗れたオーストリアハンガリー王国を名目上独立させ、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼任することで、オーストリア=ハンガリー帝国を結成した。但し、これは二月革命以来、激しくなっていたハンガリー独立運動を懐柔するためで、オーストリアハンガリーに別々の政府が存在するが、皇帝(国王)は同じという「二重帝国」であった。

 

ともあれ、ビスマルクは統一を邪魔するオーストリアを戦争で締めだすことで、軍事によるドイツ統一を一歩進めることに成功したのである。

 

ドイツ帝国

ビスマルクの歩みは止まらぬ。

ドイツの北側はプロイセン支配下に入ったが、南のバイエルン王国は未だ従属の姿勢を見せていなかったのだ。

 

そこで、ビスマルクスペイン王位継承問題を通してフランスを挑発し、プロイセン=フランス戦争普仏戦争:1870~71)を引き起こすことに成功する対外戦争を誘発することで共通の敵をつくり、ドイツ統一を進めようという算段である

当時、スペインでは革命で王位が空いたままになっていて、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)の一門がスペイン王になる予定だった。しかし、それが成立すると東西からプロイセンに挟撃される形になるフランスはこの問題に介入。ナポレオン3世がヴィルヘルム1世にかけあったことで、事態は回避された。

ところが、ナポレオン3世が、エムスに滞在中のヴィルヘルム1世に対し、今後スペイン王位継承に関わらないよう大使を通じて求めると、ビスマルクはフランス大使がヴィルヘルム1世に無礼を働いたと偽って公表(エムス電報事件)。フランス・プロイセン両国民を扇動し、開戦に誘導したのである。

 

戦争は、フランス全土とドイツ全域とによる全面対決の様相を呈した。南北でまだまとまっていなかったドイツは、フランスという対外的な敵をつくることで団結を強めたのである。

プロイセン=フランス戦争はドイツ側の圧勝に終わり、ヴェルサイユ宮殿にて"ドイツ皇帝"の戴冠式(1871)が執り行われた。ここに、ヴィルヘルム1世は"小ドイツ"の盟主となり、南北ドイツは"ドイツ帝国"として統一されたのであった

 

 

~参考~

山崎圭一(2018)『一度読んだら忘れない世界史の教科書』SBクリエイティブ

東京法令出版 教育事業推進部(2019)『歴史風景館 世界史のミュージアム』 東京法令出版

・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1202-113.html 

       https://www.y-history.net/appendix/wh1202-111_1.html

 

コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%B9%E9%9B%BB%E5%A0%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6-37433#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8  

 

 

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