無為庵

読書メモ、アイデアの蔵。

成功するかなんて気にするな

何かやりたいことを見つけても、二の足を踏んでしまう。そして、機を逃して折角巻き起こった心の焔が消える。

「まぁ、どうせ上手くいかなかっただろう」

 

私自身、この過ちを犯したこと勝げて数うべからず。しかし、最近、その原因が「上手くやらねばならない」という染みついた観念にあると気づいた。

そしてその背景には、他人の目を気にしている自分がいた。

 

どうしても他人からの評価を気にする。それは、幼い頃、無条件な承認を得られなかったからかもしれない。つまり、「あなたはただそこにいれば良い」というメッセージを貰えなかった。

そうなれば、どうにかして承認を得なければならない。そこで、努めて優秀であろうとし、周囲からの承認を得ようと無理をする習慣が始まる。

そんな人が見る"この世界"はとても厳しい。言うなれば乱世である。常に優れていなければ捨てられる。隙を見せれば刺される。ありもせぬ恐怖に駆られ、やりたくもないことに懸命に励んでしまう。そして、心が荒む、病む。

 

意味を見出せない時、無駄な時というのを忌み、常に何らかの充足感が得られないと焦ったり苛立ったりしてしまうようになる。兎に角、余裕がない。心が貧しい。

 

傍から見れば、成績優秀な人、何にでも全力な人であって、時に褒められることもある(評価されるために無理してやっているのだから当然なのだが)。それが、自分のこの歪んだ生き方が恰も正しいものであるように錯覚させ、ますます泥沼にはまっていく。

 

それでも最後には、それは徒労だったと気づく。本当は誰も、自分を貶めようとしていなかった。別に敵視していた訳ではなかった――。過去の僅かなズレが、自分の見る"世界"を歪めていただけだったと。

 

"シーシュポスの岩"のように、死ぬまで満たされることのない承認欲求を満たそうと四苦八苦するのと、過去の努力は全て無駄だったと気づかされるのは、果たしてどちらが本当の地獄だろうか。

 

「存在意義を求む」という"人間の性"。今でこそ、「存在意義などない。だからこそ自由だ」というところまで来たわけだがしかし、存在意義を求め苦しみ、巡り巡って、そんなものはないと知るというと、人間とは苦しむために生きているのかと訝りたくもなる。

 

 

――その歪んだ生き方の残滓が、今でも足を引っ張っているのではないか。

折角何かに関心をもっても、成果を出せるだろうか(いや、出さなくてはならない)という観念が心の一隅を占め、足枷になる。挑戦したいが、失敗したくない。その気持ちが挑戦を挫くのではなかろうか。

 

あるいは、他人の評価を得たいという思いが先にあって、興味をもったことはその手段として相応しいか考えているのかもしれない。

いや、失敗して自己嫌悪を強める羽目になるまいと怯えているのか。

 

いずれにせよ、自己満足を肯定すれば良いのではないか。

自己満足と言うと、あまり良いイメージはない。自分では良いことをしたと思っていても、相手にとってはただの迷惑だった、といった偽善的なニュアンスがある。

しかし、自己満足も自分の中で完結する分には大いに構わないのではないだろうか。

後先考えず興味を究めていく。その"後先考えない"ところに活路がありそうだ。